終わることのない約束

髙島雄太 & 尤梅花

3月8日は僕にとって忘れることのできない日です。10年前の2010年3月8日、中国のハンセン病快復者、龙梅花が亡くなりました。

彼女がいなければこのインドネシアハンセン病快復コロニーでのワークキャンプは生まれなかったかもしれません。

彼女は1929年、中国湖南省の農村の家庭に生まれました。1944年に結婚し、子供を授かるも早くに亡くなってしまいます。そして1947 年、彼女はハンセン病を発症し、1949年頃に湖南省の沙渡渓ハンセン病快復村に住み始めました。

彼女の夫は1959〜1961年にかけての大飢饉の時期に亡くなり、それ以降、家族や親戚もいな い彼女は一人で生きてきました。その後1977年に沙渡渓ハンセン病快復村から同じ湖南省の禾库 (ヘク)村へ移り住みました。僕が彼女と出会ったのは、2008年3月、彼女がこの世を去る2年前でした。

当時大学生活1年目が終わろうとしていた僕は、これといってやりたい事もなく、毎日ダラダラと過ごしていました。そんなある日たまたまチェ・ゲバラの本を読み、彼の情熱にあふれる生き方に触発され、彼のように生きたいと思うようになります。そしてゲバラが大学時代に南米を旅行し、ハンセン病患者と出会ったように、僕もハンセン病快復者と会ってみようと思い、中国のハンセン病快復コロニーを訪れたのです。

初めて出会うハンセン病の快復者に、最初は恐怖を感じ、彼らの変形した手を握ることもできませんでした。そんな中、ある話を聞きます。「この村には棺桶が用意されている。もうすぐ亡くなる村人のためだ」。興味を持った僕は、そのもうすぐ亡くなると言われている村人に会いに行きました。

暗い部屋で火を起こし、小さな身体をかがめて火にあたっていた村人、それが梅花婆ちゃんでした。言葉もできない僕は、持っていたみかんを剥いて半分手渡すと、彼女は美味しそうに食べて笑いました。死んでしまうなんて想像もできない元気そうな笑みでした。

しかし村を離れる前日、彼女は泣きながらこう言いました。「次あなたが来るとき、私はもうここにはいない」と。先が長くないことを彼女は一番良く知っていたのでしょうか。しかし元気そうにご飯を食べる姿からは彼女が死んでしまうということが想像できなかった僕は、「そんなことないよ、また半年後に会いに来る」と村を後にしました。

それから長期休暇のたびに村を訪れました。いつしか彼女は僕にとって大切な人となっていました。しかし、村を訪れるたび、徐々に弱っていくのが分かり、いよいよ次は本当に会えなくなるかもしれないと感じるようになりました。彼女にもう一度笑ってもらいたい。

彼女のこれまでの人生、これまでに受けてきた差別は、想像できないほど苦しく、辛いものだったと思います。年に1、2回村を訪れるだけの僕たちにできることは何もないのかもしれない。それでも、亡くなるその瞬間に思い出すのは、辛く苦しい生活ではなく、僕たちと笑って過ごした日々であってほしい。

社会から隔離された山奥の小さな村に住む梅花婆ちゃん。後遺症のある彼女は村から外にでることもできませんでした。もし、そこから遠く離れたインドネシアという地で、ワークキャンプを開き、インドネシアのハンセン病快復者が喜んでくれたなら、それが梅花婆ちゃんの生きた証となる。インドネシアでのワークキャンプの成功を伝えて、もう一度笑ってもらいたい。その思いから始まったのがインドネシアのハンセン病快復コロニーでのワークキャンプです。

しかし、僕がインドネシアに住み始め、現地の大学生とインドネシアで初めてのワークキャンプに向けて準備を進めていた2010年3月8日、彼女は息を引き取りました。最後にもう一度笑って もらいたい、その約束を完結させることはできませんでした。

彼女が亡くなる直前何を思ったか、もう知ることはできません。しかし彼女は今もインドネシアで着実に変化を起こし続けています。インドネシアでワークキャンプが開かれるようになり、道路が舗装され、排水溝やトイレが整備されました。人と会うことを拒んでいた快復者が、学生の訪問を楽しみに待ってくれるようになりました。ハンセン病を恐れ、村に近寄ることのなかった周辺地域の人々が村を訪れるようになりました。きっと天国で、穏やかに笑って見てくれていることを願います。